ファイナルファイト開発者インタビュー
12月6日(木)に「カプコン ベルトアクション コレクション」パッケージ版が発売されます!
さらに11月30日(金)には、カプコン格闘キャラクターの作り方を紹介した「ストリートファイター キャラクターメイキング」(ボーンデジタル社刊)が発売になります。
書籍に収録された「ファイナルファイト開発者インタビュー」を一部先行公開!(「ストリートファイターII 開発者インタビュー」も公開中!)。
"●●はカプコンの伝統"、 "ハガーは●・●●●●●の影響"等、驚きの情報もたくさん!
ぜひお読みください。
■ファイナルファイト始動!
――『ロストワールド』(1988年7月カプコン)から『ファイナルファイト』(1989年12月)の開発に至る経緯は、どのようなものだったのでしょう?
元々は『ストリートファイター(以下スト1)』(1988年カプコン)の続編企画が先にあったんですよ。
でも、当時はファミコン増産などのせいで世界的に1メガROMのチップが無くなっていた状況があって。
『スト1』はグラフィックだけで48メガの容量を使えていたのに、その当時続編を作ろうとしたら32メガしか使えなかった。
そこで1メガROMの状況が整うまで時間稼ぎをする必要があったんです。
――『ファイナルファイト』は詳細な企画書が用意されていたようですが、これはどなたが用意されたのですか?
ボクです。
当時、藤原さん(『魔界村』プロデューサー)とかと海外に出張に行く機会があったんですが、そこでベルトスクロールアクション、『ダブルドラゴン』(1987年テクノスジャパン)や『脱獄』(1988年SNK)が流行していて。
ボク自身はシューティングゲームが好きで『グラディウス』(1985年コナミ)が最高のゲームだと思っているのに、どうもそういう状況じゃなくって(全員笑)。
そこで細かく仕様を入れた企画書を作ってから開発に臨みました。
私も海外出張のときに当時のアメリカのゲームセンターを視察して。
当時アメリカのアーケードゲームは、お金を「トークン」というコインに変えてから遊ぶのが主流だったのですが、
ベルトスクロールアクションのプレイを見ていると、コンティニューでものすごい数のトークンをつぎこんで行くんです。
日本人だったら「1コインでどれだけ進めるか」が重要だと思うんですが、
アメリカ人はプレイヤーがやられても喜んでいて、楽しそうに延々とコンティニューしている。
――やられてもくやしそうではないのですか?
同じ"敵にやられて死ぬ"のでも、アンドレのパイルドライバーを食らってやられるほうが面白いじゃないですか(笑)。
そういった場面を楽しんでいる。日本人とは文化が違うので、そこが衝撃でした。
――企画書を見ると「ファイナルファイト」は当初は『ストリートファイター2(仮題)』として作られていたようですが、よりアメリカンな世界になったのは、映画「ストリート・オブ・ファイヤー」(※1984年の映画。ウォルター・ヒル監督作)の影響でしょうか?
その影響はあります。元々『ファイナルファイト』は、企画の導入以外は『スト1』とはまったく別のゲームとして作っていたんです。
「映画を参考にしろ」というのは、当時の社長(現カプコン会長:辻本憲三氏)がよく言っていた言葉で、
そこで『ストリート・オブ・ファイヤー』や『ストリートファイター』(※1975年の映画。ウォルター・ヒル監督作)を参考にしたと思います。
時間が無いからって、モニター3台並べて別の映画を流しながら「全部見て勉強しろ」とか社長が言ってきて。
――そんな聖徳太子な勉強法が!?
(笑)「映像資料室」という部署があって、そこでいろんな映画の映像を切り貼りして、企画プレゼン用映像を作った記憶がありますね。
――そうした映画の影響で、あの"ニューヨークの下町"的な世界感が決まったのですね。
そうですね。
あとアメリカに出張に行ったときに、通訳の人に「安田くんはアメリカの状況を知らないね、勉強不足だね」って言われて。
――(笑)。
イスラエルとか世界情勢から説明されて、オレってバカなんだなって実感させられて(笑)。
それで、通訳の人の言う世界情勢の本とか読んで勉強して。
――それはヒドい。
■プレイヤーキャラクターのデザイン
――プレイヤーキャラクターの青年、市長、忍者、というバランスはどのように決まったのでしょう?
コーディーは「ストリート・オブ・ファイヤー」の流れとしても、"市長"と"忍者"は異質ですよね。
"忍者"はカプコンの伝統だと思っていたんです。
『ガンスモーク』(1985年カプコン)にも入っていたし、「カプコンタイトルでは当然入るもの」という認識だったんですよ。
『ガンスモーク』を作った岡本吉起(以下"岡本")さんは忍者は出したくなかったらしいんだけど、社長が「ウケるためには忍者が必要」ってねじ込んだらしくて。
それは知らなかった(笑)。
「アメリカでは忍者と恐竜は必ずウケる」というのは、社長の言葉ですね。
たしかに社長はそれをよく言ってましたね。
忍者ゲームでは、『ニンジャウォーリアーズ』(1988年タイトー)とかありましたよね。
あ~、ありましたね~! 海外でもメチャクチャウケてました。
あと『忍者龍剣伝』(1988年テクモ)とか。
コンティニューでノコギリが迫ってくるところとか相撲キャラとか、いろいろと影響を受けています。
――あ、コンティニュー画面のダイナマイトは、そういった影響があったんですね。
『ファイナルファイト」でも相撲取りは出ないけれども、ワン・フーという相撲取り的な存在もいますね。
ニューヨーク風なところに相撲取りキャラがいるのは設定としておかしいんだけれど、「ティファニーで朝食を」(1961年の映画。ブレイク・エドワーズ監督作)の二階に住んでいる間違った感じの日本人の変なおじさんとか、そういうおかしい存在も取り入れたかったんですよ。
――ハガーの"市長"というのも変わった設定ですね。
当時、安田さんは「レ・ミゼラブル」にハマッてたんじゃなかったでしたっけ。
その影響があると思ってましたが?
そうそう、ハガーは「レ・ミゼラブル」主役のジャン・バルジャンの影響はありますね。
物語後半の、市長になったジャン・バルジャン。
ハガーは「マッドブル34」(1985年小池一夫原作・井上紀良作画)の影響もあるのでは?
あ、そっちもあります。
市長であるのはジャン・バルジャンで、「マッドブル34」の影響もあって。ハガーはいろんな影響を受けて作ったキャラクターですね。
――西谷さんは過去のインタビューでキャラクターのジャンプに特徴をつけることでキャラクター性を表現した、と言われていましたが、それぞれのキャラクターの動きで意識されたことはありますか?
攻撃パターンはある程度決まっていたから、プレイヤーの攻撃に対してヤラレを考える、というのは基本ですね。
この敵はこういうことやりそうだな、とか、ゲームの遊びで素早い敵が欲しい、とか、イメージで動きを作っていきました。
ロキシーやポイズンは回転で逃げる感じが欲しい、とか。
ハリウッドは上から登場するのを指定された気がします。
――火炎瓶を置いていったりとか。
そうですね。
意外な展開も欲しかったので、そういう指定を入れていきました。
それがハリウッドの使い回しキャラ(エルガド)になったのにはビックリしましたけど。
まあ、容量が無かったので。
しょうがないですよね。『ロストワールド』の半分の容量でグラフィックをやってますから。
途中で増やして良いって言われたんですけど。
今更そんなこと言われてもねえ(笑)。
つり革が揺れたり、車窓外に流れる明かりなど作り込みも細かいです。
■それぞれのアテンド
――S・Yさんはどういった経緯で『ファイナルファイト』に参加されたのですか?
最初は『魔界村』のチームにいたんですが、藤原さん(魔界村プロデューサー)が怖かったので家庭用部署に逃げて。
そんな経緯があったんですか。初めて知りました(笑)。
さらにそこからも異動して、アーケードの部署に来ました(笑)。
当時『レッドストーム』というレースゲームが開発中で、それが後に改良されて『マッドギア』(1989年カプコン)になるんです。
そこで西谷さんを岡本さんから紹介されて同じチームになって、そこからの流れで『ファイナルファイト』に参加して、安田さんを紹介されました。
『マッドギア』『カプコンベースボール』(1989年カプコン)の製作の後に『ファイナルファイト』に参加していますね。
――NISSUIさんはどのような経緯で参加されたのですか?
もう30年前の話なので記憶もかすかなんですけど、当時新入社員で安田さんにドットを教えていただいて、その流れで『ファイナルファイト』に参加する形だったと思います。
――NISSUIさんはどのへんのステージを担当されたのですか?
最初のスラム街と最後のステージ、屋上庭園、ラスボスステージまわりを担当しました。
ほかのステージ担当はどうでしたっけ?
MIKICHANさんが工場、OKACHANさんがバーを作って、FUKUMARYさんが地下鉄とかですね。
あ~、そうでした。みんな凄い個性ですね。
OKACHANさんはけっこう複雑なことが好きだった気がします。
――地下鉄の揺れるつり革とか流れる背景とか、丁寧に作られていたと思います。
その辺はよく覚えてないですが、プログラマーが頑張ってくれたんだと思います。
――ディテールはおまかせだったのですか?
けっこうスタッフにまかせていた気がしますね。
制作後半はとくに。工場で火が燃える溶鉱炉のようなステージがあると思うんですが、あれは先に画面で見せられた気がします。
――おお、なるほど!
先にステージを見せられたので、「じゃあ火を出したいな」と思って、後から火を出す仕組みを入れたりしました。
■ファイナルなスタッフ
――開発にはどのぐらい人がいたのですか?
当時『ロストワールド』がヒットしなかったので開発人員を減らされて。
ドッターは新人のTISSUE君と、後で追加された一人ぐらいで。
後にブランカを作るPRINCE君ですね。
そうそう。
TISSUE君は新人なのになかなかワイルドな男で、「クリエイターっぽいことがやりたい」と言っていたんですけど、新人になかなかそういう任せ方はできないじゃないですか。
それでコーディーのキメポーズとかやらせたりしていたんですが、それでも待遇に不満があったらしく「クリエイターっぽいことができないのなら定時で帰らせてもらいます」って言われて(笑)。
当時のゲーム開発会社で「定時帰宅」って、なかなか無いですね(笑)。
そのため彼に仕事を与えるために、とにかく彼のドットを打つための原画を先にボクが描くという、この時だけの制作体制を取りました。
――(笑)ドッターの方は、あきまんさん、S・Yさんを入れて4人だったのですか?
『ロストワールド』のときは、グラフィックはどのぐらい人がいたのですか?
『ロストワールド』のときは、グラフィッカーだけで20人ぐらいいました。
最後は、カプコン開発のドッターほぼ全員でグラフィックをやってましたね。
そのときでも西谷さんは岡本さん(上司)の机の近くで寝る、という技を開発して。
――(笑)
「灯台下暗し」作戦ですね。
普通は岡本さんに就業中に寝てるの見つかったらすごく怒られるのに、度胸ありますよね~。
■「デッカッコイイ」がキーワード
――以前のインタビューであきまんさんは、『ファイナルファイト』ではそれまでにない制作方式を取ったような発言がありましたが、具体的にはどういうところですか?
当時は「背景や画面まで全部出来ているのに、グラフィックがボツ」ということがけっこうあって。
ありましたありました。
『大魔界村』とか、一面の画面が全部出来ているのに「面白くないからボツ! 作り直し!!」とかあったんです。もうビックリして(笑)。
「武器のグラフィックを作ってから、その武器の攻撃を考える」とか。
それはそれで理想的な制作体制なのかもしれないけれど、今後グラフィックの容量が増大していく未来が見えていたので、もっと効率的にできないかと思っていたんです。
そこで『ファイナルファイト』では、キャラクターデザインをすべて起こしてから、実際の製作に入るやり方を採りました。
最初にある程度登場キャラクターのデザインを作って製作に臨む、アニメの作り方に近い形ですね。
――「ファイナルファイト」は、それまでのベルトアクションゲームから考えてもキャラクターが大きいと思います。
当時、開発内では「デッカッコイイ」、デカイものはカッコイイ、という言葉を使われていたそうですが、そういう大きさのインパクトは意識されていたのでしょうか?
ベルトアクションゲームでも群を抜くキャラの大きさは、かなりのインパクトでした。
そうですね。『ロストワールド』を作っているときに、とにかくムダに苦労したんですよ。
『ロストワールド』のときはステージ毎に雑魚キャラを新しくして動きもつけたんですが、よく考えたら"初見殺し"でしかないですよね。
初めて見た人は対処できない。
アーケードゲームではやってはいけない内容で(笑)。
そこで反省したんです。
――なるほど。
そこで、いかに効率的に作るかということを考えたとき、同じ容量を使っても奥行きのあるキャラ、先に進んで面白いキャラが出るのではない方向に切り替えました。
社長にも「パッと見の驚きを出せ」と言われたんですよ。
今はそんなでもないかと思いますが、デカいキャラは当時インパクトがありましたから、それを出したかったんです。
当時『黄金の城』(1986年タイトー)が出たときにすごい大きいキャラが出て、かなりインパクトがありましたから。
今から考えても『ファイナルファイト』はパターン数は少なかったと思うんです。
それでも、キャラクターが大きいことでインパクトは強く出せた形だったかな、と思います。
プレイヤーだけは歩きで12パターン持たせて、全体の動きをごまかすという(笑)。
歩いているときは横幅を縮めて32ドットにして容量を食わない形にして。
横に長いと、それだけ容量を食ってしまうんです。
大きいキャラを作る場合、パソコンの表示画面サイズが小さくて大変でした。
当時は使える色数も少なくて。
肌は5~7色で作り、上着を5色、残り5色でズボンを作らなきゃいけない。
とにかく16色の色を打つために、ブラインドタッチで出来るだけ速く打つことにこだわりました(笑)。
S・Yさんの入力は早かったですよね。
当時は開発ツールも大きいキャラクターの制作向けに作られていなくて。
32X32ドットの表示しかされないので、128X64ドットのキャラが表示されない。
キャラ詰めも大変でしたね。
――"キャラ詰め"ですか?
当時は紙を切り貼りして、キャラクターを容量内に収める作業をしていたんです。
容量の空きを作らないように、ROMの容量を書いた台紙の上に、ドットのキャラクターを切り貼りして埋めていくんですよ。
そうそう。
この台紙上でスキマがあるとROMの容量が余ってる、ということになっちゃうんです。
そこでパズルのように組み合わせて隙間を埋めて。
それで面白かったのが、制作の最後にエンディングの容量が必要となったときにどうしても容量が無くて。
そうしたら、行方不明になっていた台紙の一枚が机の下から出てきて。
"奇跡の容量"、と言われましたね(笑)。
あれは良かったですよね。
当時、TISSUE君の起こしたケンカでドッターが2人謹慎になったので2日半寝てなくて、台紙が見つかったときは朦朧としてました。
その日はTISSUE君がコブシに包帯巻いて、PRINCE君が頭に包帯巻いてましたね。
――あ、有名なケンカのエピソードと同じ日だったんですね(笑)。
4人しかいないドッターのうち2人が謹慎になったら、ボクとS・Yさんしか残らないですよね。
大変だったなあ。
キャラクタードット原画を切り張りし、なるべくスキマを作らないように詰め込んでいきました。
さて、今回はここまで! この続きは11月30日発売の「ストリートファイター キャラクターメイキング」(ボーンデジタル社)にてお楽しみください!
そして先ほど述べたように、『ファイナルファイト』も収録、『カプコン ベルトアクションコレクション』は12月6日パッケージ版発売&好評配信中!
ぜひご自宅で、インタビューの内容をご確認ください!!
■座談会参加者プロフィール
西谷亮
カプコン初の専任企画スタッフとして入社し、安田氏とともに『ロストワールド』『ファイナルファイト』『ストリートファイターII』を開発する。
退社後、ゲーム制作会社を立ち上げ、『ストリートファイターEX』シリーズや『テトリス・ザ・グランドマスター』シリーズなど数々の作品をリリースする。
最新作は『FIGHTING EX LAYER』。株式会社アリカ代表取締役社長。
あきまん(安田朗)
『ストII』ではキャラクターデザインと企画を担当。
カプコン在籍時はグラフィッカー&プランナーとして活躍。
後輩の育成にも力を入れ、カプコンのグラフィックやアニメーションパターンの制作に大きく貢献した。
現在はフリーのイラストレーター、キャラクター&メカニカルデザイナー、漫画家として活躍。ペンネームはあきまん(AKIMAN)。
S・Y
『魔界村』『魔界島』や『ファイナルファイト』『ストリートファイターⅡ』『アルティメット・エコロジー』等、数多くのタイトルの開発に携わる。
現在はPS制作部にてエンターライズ・ホームページの素材作成。CG研究。
NISSUI
『ファイナルファイト』『キャプテンコマンドー』『サイバーボッツ』『ダンジョン&ドラゴンズ』『ストリートファイターZERO3』『ゼルダの伝説 ふしぎの木の実』『ゼルダの伝説 ふしぎのぼうし』『流星のロックマンシリーズ』等の背景制作に参加。
現在は『バイオハザード7』『モンスターハンターWorld』等の外部委託マネージメントを担当。