The Side Readers

Side readers : 05「蠱毒」(後)

前回のお話はこちら

F.A.N.Gが取り出したのは、大金と剣。
選択には意味があった。
図らずも少女が選び取ったものは......

蠱毒(後)

「選べ」

 札束と、床に立った短剣を前に、男が言った。

 分厚い札束は、貧しい兄妹が一年は遊んで暮らせるほどある。だが、その横で妖しく光を放つ古い剣にこそ、実は値打ちがあった。短剣は、男の一族の秘宝だった。ただ一人、奥義を究めた者だけに所有が許される、一族の歴史そのものだった。美しい刀身には古の失われた文字で、一族の奥義が刻まれている。美術品としてだけでも、札束の百倍もの価値があった。

 少年は動けなかった。見たこともない札束の迫力と、不意に暗殺者の気を発した男に、すくんでいた。

 選択には、意味があった。

 札束に男は、毒を仕込んであった。遅効性で、触れた者たちをゆっくりと殺す。少年たちの裏に黒幕がいるのなら、そいつらも含めて潰す。

 短剣に手を出すようなら、金を取るよりも目端が利く。その場合は殺さない。手首を斬り落として、逃がす。手首のない目利きが語る話は、短剣の神秘性を高める。そうするのが、一族の決まりだった。

 そして、二人が何も取らずに逃げ出したら、見逃してやる。男は、そのつもりだった。

 かくりと少女がその場で膝をついた。怯えたのではなかった。少女は、魅せられていた。息をするのも忘れたように、一心に短剣を見つめていた。鋼に毒を折り込むように、千年をかけて磨かれた刀身だった。この世のものならぬ煌めきが、黒い瞳に妖しく照り返していた。

「......」

 吸い寄せられるように、少女の手が短剣に伸びる。男の指が小さく動く。あと数センチ。少女が剣に触れた瞬間、男の訓練された動きは微塵の隙もなく床の短剣を引き抜く。そして次の瞬間、少女はその白い手首を失うことになる。

 だが彼女の手は、短剣に触れる寸前で止まった。壮絶なまでに美しい刀身に刻まれた文字をなぞるように、繊細な指が空中で動いた。何度かそうして、それから少女は男を見上げる。懇願するような色が、その目にあった。

「......剣が欲しいか?」

 低く男がそう訊ねる。少女は少し考えて、首を振る。

「......不对いいえ

 それからもう一度。全身を震わせるように、首を振った。

「いいえ。これは、私が手にして良い物ではないと思います」

 ほう。男が目を細める。少女の言葉は熱を帯びた。

「これは......、この剣は美しい。こんなにきれいなものが世の中にあるなんて、わたしは知りませんでした」

 その声には今や、何の芝居もなかった。年齢相応の、少女の心からの言葉だった。膝で後じさると、少女は床に手をついた。

「剣を手に取るわけにはいきません。お金も要りません。......ですが、お願いがあります。そこに書かれた文字を教えてください」

 お願いしますと、少女は祈りのように頭を下げる。慌てたように、金を取れと声を裏返す少年を、男は一瞥して黙らせる。ついと床の短剣を引き抜く。

「......文字を? なぜだ?」

「わたしは、学校にいってないので、難しい字が読めません」

 少女は顔を上げる。

「でも、わかるんです。それほど美しい剣に書かれた文字には、きっと力があります。わたしのこの世界を、ぜんぶ変えてしまうような力が、ある気がするんです」

 目に涙が光った。男は軽く手を振る。短剣の鋭い切っ先が、少女の薄い胸にひたりと突きつけられた。

「本気か?」

 こくり。男の言葉に少女はうなずく。その黒い瞳の奥に、毒の強さが揺らめいているのを、男は見る。

 ああ。男は思う。少女の目がきょうだいたちと同じだと感じたのは、間違いだった。少女の瞳は男の視線を受け止め、底知れぬ毒の沼に引き込む。これほどの強靭さは、男自身も含めて、どのきょうだいにもなかった。

「娘......、お前の言うとおりだ」

 男は静かに告げる。短剣の文字には力がある。そこには一族が受け継いできた、最強の毒手を生み出す奥義が記されている。他ならぬ男自身が、それを体現した毒使いに他ならない。金でも、短剣そのものでもない、この場で最も価値のあるものがそれだった。無意識に少女は、そのことを見抜いていた。

「お前がこの文字を本当に読みたければ、教えよう」

 男の言葉は、少女が全てを棄てることを意味していた。名を棄て、命を棄て、兇手となることを意味した。かつての男が、そうしたように。

 覚悟を問うと、少女は目を閉じる。深く呼吸して再び目を開けると、言った。

はい

 その目に、迷いはなかった。

 男は手を一振りする。その手にあった短剣は、最初からなかったように姿を消す。跪いた少女に向けて、男は小さくつぶやく―― ゆうれい

「今からお前はそう呼ばれる」

 名を棄て、死人として生きることを選んだ少女は、男の言葉にうなずきを返す。立ち上がると、はや踵を返して歩き始めた男の背を追った。



 ......都市の暗がりを、男が歩いていた。

 名のない男は、兇手ころしやだった。

 男の最初の仕事は、三人の兇手が相手だった。

 手強い三人の毒使いだった。

 男は三人を始末した。

 三人の血が、男を最強の毒手にした。

 三人にとどめを刺した剣は、今も男の手にあった。

 男は歩いていた。

 その後ろを、少女がひとり、ついて歩き始めた。

 二人の影は、闇に紛れて、すぐに見えなくなった。

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